人生万事大丈夫

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2022年05月

うつぶせ

 今日は休み。昼寝しようかどうしようか、微妙なタイミングでこれを書いている。いちおう布団の上にいて、今うつぶせになっている。枕元のタブレットの横には、読みかけの『鎌倉ものがたり』が置いてある。

 そういえばこの姿勢、けっこう以前からやっていて、古くは四十数年前、歌詞なんかを作っていた頃。あの頃も今と同じように、いつ眠ってもいいように、このポーズを取っていたんだった。
 そうそう、大学ノートの横には、読みかけの『マカロニほうれん荘』が置いてあった。

 そうなんです。昔と何ら変わらない、進歩のない男なのでございます。

怒る

 小学生の頃ぼくは怒ることのない子だった。他人から馬鹿にされても意地悪されても、まったく怒ることはなかった。
 決して気が弱かったわけではない。怒りがこみ上げることがなかったのだ。
「なんで怒らないのか」
 と、そのことで友だちから不思議そうな顔をして問われても、
『こいつ変なこと聞くなぁ』
 と友だちの顔を、不思議な気持ちで見ていたものだった。

 それが変わったのは中学生になった頃からで、あまりに周りが変なことを聞くので怒らないと何か損したような気がして、無理して怒るようになったのだ。
 そして、それがだんだん癖となっていき、社会に出てからは、いつもいつもいつも、怒ったり、怒ったような顔をしたりして、けっこう怖い人だと噂されるようになった。

 だけど何かが違っていたんだな。怒ったあとの気分は最悪だったし、その日はロクな目に遭わなかったし。怒った顔のために暗い人と言われたり、やはりぼくには怒りは似合わなかったのだ。

 ということで、四十代半ばで、ぼくはようやく本来の自分に気づいたのだった。
 とはいえ三十年怒り続けた癖というものは、そう簡単に抜けるものではない。徐々に本来の自分に戻っていくしかない、と心に決めて二十年近くが経つが、いまだに怒っている。

持病と予防

『これはポケットに入れておかないと、いつか落としそうな気がする』
 そう思った時は、決まってそれをどこかに落としている。だから落としそうな気がした時は、それをポケットに入れるようにと言い聞かせている。

 ところが、実際にそんな気がした時、ぼくは落とした過去を忘れてしまい、なぜか無意識に手にそれを持ってしまうのだ。そして、またそれをどこかに落としている。

 それを落としそうな気がする時は、きっと神や仏が教えてくれているのだ。あとで悔やまないためにも、そういう声にぼくはもっと真剣でなければならない。

アコースティックギター


 ギブソンに、『ダヴ』とか『ハミングバード』という名のアコースティックギターがある。高校の頃、ぼくたちギター仲間の憧れで、誰もが欲しがる一本だったが、あの時代の輸入物はやたら高くて、そうそう手の出る代物ではなかった。

 そうした輸入物への漠然とした憧れを、現実のものとして捉えられるようになったのは、ぼくが二十歳を過ぎてからのことで、その頃には円の力もついていて、少し背伸びすれば買えるようになった。

 そこで箔付けに筋の通った一本を買おうと、楽器屋に何度も足を運んで候補を絞った。もちろん『ダヴ』や『ハミングバード』もその中にあったのだが、どうも『ダヴ』や『ハミングバード』の赤い色が引っかかる。それに加えてピックガードの鳩や鳥の画だ。
「これだと飽きが来るに違いない」と思い、『ダヴ』や『ハミングバード』はやめた。
 他にもギブソンで気に入ったのがあったが、知り合いが持っていたので却下。

 結局、ぼくは薄型のオベーション(グレンキャンベルモデル)を選んだ。
 なぜオベーションにしたのかというと、テレビでポール・マッカートニーのオーストラリア公演を見たのだが、『ブラックバード』をやる時にポールが弾いていたのがオベーション・グレンキャンベルモデルだった。ホワイトアルバムでのギターの音色とは違う音色がそこにあり、それを聴いたとたんぼくは「これだ!」と思ったわけだ。

 しかし、このオベーションには泣かされた。本体は薄くて軽いものだったが、ケースが大きくて重い。これを持って飛行機に乗ったり、新幹線に乗ったり、船に乗ったりしていたのだから大変だった。確かにソフトケースにすれば、そこまで苦労しなくてもよかったのだろうが、何せぼくにとっては貴重品だ。ついつい慎重になり、純正の大きなハードケースに入れて持ち運びしていたのだ。

 とはいえ、その後買ったマーティンは、わりと乱雑に扱っていた。年を重ねるにつれ、ギターはぼくにとっての貴重品ではなくなっていったのだろう。
 ちなみにそのマーティンギターで、ちょっとした事件(ぼくにとっては大事件)に巻き込まれることになるのだが、それはまた別の話。

最初で最後の思い出

 関門橋が開通した頃だったか、友人と門司港に遊びに行ったことがある。
 門司港は市の東の端に位置し、西の端にあるぼくたちの住むの街からは、およそ30キロ離れている。それだけ離れていれば、国鉄(当時)を利用するのが普通だが、ぼくたちはその方法をとらなかった。チンチン電車に乗って行くことにしたのだ。
 その理由は、友だちもぼくも、チンチン電車で終点まで行ったことがなかったからだ。もちろん幼い頃からチンチン電車はしょっ中利用していたが、利用するのはいつも2、3キロ離れた繁華街までだった。

 その日は、最寄り駅の二つ手前にある始発駅から乗った。せっかくだから始発駅から終着駅まで乗ることにしたのだ。その所要時間は、並行して走る国鉄(普通電車で40分程度)の4、5倍かかったような気がする。国鉄のように専用軌道ではなく、道路上を走るので、時速制限があったり、信号待ちにかかってしまったりして時間を食うのだ。
 ということで、「ノロノロ走るチンチン電車は、繁華街に遊びに行くのには都合がいいが、遠く離れた場所に行くのには適してない乗り物だ」と、その時思ったものだった。

 とはいえ、あの時チンチン電車を使ってよかった。なぜならそれからおよそ30年後にチンチン電車が廃止になるまで、それを利用して門司港に行くことはなかったからだ。つまりその時が、始発駅から終着駅までチンチン電車に乗った最初で最後だったというわけだ。

只今大ヒット中

 20歳を過ぎてから40歳過ぎまで、ぼくはテレビをあまり見てこなかった。だからなんだろうけど、80年代と90年代の流行が、ほぼほぼ欠落している。
 その頃どんなファッションが流行っていたのかも憶えてないし、その頃どんなドラマが流行っていたのかも憶えてない。当時の流行語なんかも憶えてないし、どんな歌手がいたのかも、どんな歌が流行ったのかもはっきりとは憶えていない。
 とりあえず憶えているのは、『サボテンの花』のリバイバルヒットくらいだ。

 だからというわけではないのだが、そんなぼくの中ではいまだに70年代中期が新しく、その頃の歌が只今大ヒット中なのだ。
 ぼくの中では、サザンだって長渕だって浜省だって、いまだに新人なんだな、これが。

水道水

 家に帰ってから水道水でうがいをする。口に入れた瞬間、あまりのまずさに水を吐き出してしまう。こういうことがしょっ中ある。いくらきれいだからといっても、最近の水道水はうまいものではない。

 そういえば子どもの頃の楽しみのひとつに、広場で野球をするというのがあった。組織化された少年野球とかじゃなくて、誰彼となく集まっては成り行きで野球を始める、つまり草野球だ。

 夏の炎天下でも厭わなかった。太陽の下で遊ぶのが子どもだったし、当時は誰もが暑ければ日陰で涼むという常識を知っていたから、倒れる子どももいなかった。

 野球を終えると渇いた子どもたちは、水道の蛇口に群がってがぶがぶと水を飲む。
 考えてみれば、あの頃の水道水は決してきれいではなかったけど、おいしかった。

一族の自慢

「先祖に小学校の校長先生がいた」というのが、うちの一族の自慢で、小さい頃からよく聞かされていた。
 高校の頃に馬鹿やっていた友だちが校長をやっていたくらいだから、現在の校長先生というのは、そこまで価値を持たないのかも知れない。が、先祖の活躍した時代は明治だ。しかもその小学校の初代校長であったと言うから、その価値は計り知れないものがある。

 ところが社会に出てから、その手の話を至る所で聞くことになった。実際同じ職場で働く人の中にも二人ほどいた。で、その人たちとぼくは親戚なのかというとそうではなく、まったく血のつながりのない他人なのだ。
 そういうことがあって以来、校長先生話は、ぼくの中では眉唾物だという結論に達していた。

 しかしそれが事実だということを近年知ることになる。実はその小学校というのが嫁さんの通った学校で、校長室に飾ってあった歴代校長の写真の一番左側、つまり初代の校長先生は、確かにうちの一族の姓で、その人の出身地もうちの一族の住む町だったという話だ。
 ということで、ぼくの先祖の校長先生は、再び一族の自慢となったわけだ。

ニンニク臭

 昨晩9時頃だったか、スーパーの惣菜コーナーで買った唐揚げを食べたのだが、朝になっても胃の中にニンニク臭が残っていて、その臭いが気になって仕方ない。
 昔は唐揚げを食べても、ニンニク臭を感じたことがなかった。というか、ニンニクが入っているなんて思ったこともなかったのだ。昔は少しだけしか入ってなかったか、もしくは入ってなかったのかもしれない。
 最近は、ニンニクさえ入っていればおいしいとでも思っているのか、唐揚げに限らず何にでもニンニクが入っている。例えばポテチなどのお菓子の中にもニンニクが入っているのがある。おかげでいつも口臭を気にしている。

 昼間になってもゲップをすれば、ニンニク臭が出てくるのかなあ・・・。今日は仕事なので困ってしまう。あとで牛乳を飲んでおこう。

五月の病気


 今から四十四年前、東京に出た年のちょうど五月のこの時期のことだったが、集中力の欠けた、気合いの入らない毎日をぼくは送っていた。
 五月病だったのかというと、そうではない。実は腫れ痔に悩んでいたのだ。別に不衛生にしていたわけではないのだが、なぜかお尻はいつも痛みと熱を持っていて、それが気になって落ち着かない。時には急にふさぎ込んだりするもんで、周りから変な人と思われていたようだ。

 痔のことを周りに言えば変な人と思われることもなく、あわよくば同情する人が現れて、そこから友情も生まれたかもしれないが、六十歳を過ぎた今ならともかくも、二十歳になったばかりの若者が、
「いやー、実は腫れ痔でね」
 なんて易々と口に出来るわけがない。
 というわけで、東京に出てから数ヶ月、ぼくはその恥ずかしい病気が原因の、孤独で寂しい人だったのだ。

友人からの電話

 先日、友人から電話が入った。
「おまえ、トーカイシを知っとるか?」
 その言葉を聞いて、ぼくの頭の中を、『十日石』という文字がよぎった。
『十日石、さてどんな石だったろうか?』
 いや、友人は石のことを聞いて来るような人間ではない。
『トーカイシ、トーカイシ・・。あ、もしかしたら東海市かも知れん』
 そこで「それは地名か?」と聞いてみたら、友人は「そうだ」と答える。

 東海市なら知っている。
「知っとるよ。名古屋の隣の東海市やろ」
「それは最近出来た市か?」
「いや、何十年も前からあるぞ。中学になる前からその地名やったから、もう五十年以上になるんじゃないかの。以前は知多郡何とか町やったと思う」
「えらく詳しいのう」

 東海市、久しぶりに聞く地名だ。そこは母の下の弟がかつて住んでいた所で、その知多郡何とか町から東海市に変わったと聞いたのが、その地名を耳にした最初だった。
 それから数年、年賀状や手紙のやりとりをしていたが、その後まもなく叔父が名古屋市内に引っ越したために、東海市という地名を使うこともなくなった。それ以来、ぼくの中から東海市という地名が消えたのだった。

 ぼくが小三の時、そう、まだそこが知多郡何とか町だった頃に、一度だけ家族総出で行ったことがある。その叔父の結婚式をそこでやったのだ。
 すでにその結婚式のことは忘れているが、ひとつだけ忘れられない出来事がある。そこに行った時に入った茶店での話だ。
 その店でぼくはトコロテンを頼んだ。すると店の人が持ってきたのは、トコロテンと割り箸の片割れだった。それを見て母が、
「箸が一本しかありません」と言うと、店の人は
「トコロテンは箸一本で食べるもんですよ」と、それが当然のように仰せられ、残りの割り箸は持ってきてくれなかった。しかたないので、ぼくは箸一本で四苦八苦しながら食べたのだった。
「所変われば食べ方も違う」と、その時のことを母や伯母はいまだに言っている。
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