人生万事大丈夫!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2021年11月

 休みです。午後から雨が降るというので、午前中歩いてきました。場所は例の貯水池です。
 今日はスタート地点で、『餌くれ一派』にお出迎えされました。
 ぼくが歩いていると、草むらから出てきて「ミャー」と言う。ぼくが振り返ると「ミャー」と言う。ポケットからスマホを出すと「ミャー」と言う。スマホを向けると「ミャー」と言う。シャッター音で「ミャー」と言う。ぼくが去ろうとすると「ミャー」と言う。
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先日とは別のキジネコです。ぼくは前のよりこちらの方が好きだな。前のは野性味があり、愛くるしさがなかった。前回同様、餌は与えておりません。

 今日は休み。昼間、いつもの貯水池に歩きに行った。そこを歩いたのは二週間ぶりだ。さすがに前よりも気温は下がっていて、吹く風が冷たかった。
 前に歩いた時から変わったことといえば、気温だけではない。バッタがいなくなっていたのだ。二週間前には、ぼくの足元に絡みつくように、たくさんのバッタがいた。もう冬眠に入ったのだろうか。しかし、なぜか蝶は飛んでいた。

「もう冬なんだな」などと思いながら歩いていると、バッタではなく、コイツが足元に絡んできた。
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『餌を与えないでください』と、区が貼り紙で訴えていた猫の一派だ。かなり多くの人が餌を与えているのだろう、絡みつき方が板についていた。しかしぼくは、区の仰せの通り餌を与えることはしなかった。猫もそれを察したのか、「ニャー」と言いながら、ぼくから離れていった。

1,
 ぼくは22歳に社会に出てから64歳になった今まで、ずっと立ち仕事をやっている。若い頃は疲れたら休憩していたのだが、最近は座ることもせず、ずっと立っている。そのため体力をかなり使う。前に休みの日には歩きに行っていると書いたが、実は休みの日よりも仕事の日の方が多く歩いているのだ。
 しかし、時には立ったまま動かないこともある。そういう時は決まって腰に凄い痛みが走る。軽い腰痛ならストレッチで何とかなるのだが、そうなってしまうとストレッチが効かない。座ってもダメだ。

2,
 昨年ぼくは脳梗塞を患い病院に一週間ほど入院していたのだが、退院したその日から仕事復帰の前日まで、毎日10キロ以上歩いていた。周囲からは、
「大病したんだから、少し静養したほうがいい」と言われたが、
「一週間も入院していたんだから、静養はもう十分だ。それよりも仕事に復帰した時にバテない体を作らんと、別の病気になってしまう」と言って、ぼくは歩きを敢行した。おかげで仕事復帰したその日から、バテることなく一日を乗り切ることができたのだった。

3,
 腰痛には長年悩まされている。昨年入院する前、既に限界を感じていた。
「このまま立っていたら死ぬ」
 と感じた神さまが、体を休ませようと、別の病気を作って入院にさせたのではないかと思っている。しかし退院後もこの腰痛だけはどうにもならない。
 一度脳神経外科の担当医に聞いたことがある。
「ふくらはぎがしびれるんですけど、これも脳梗塞の後遺症でしょうか?」
「そこは脳梗塞でしびれる部位ではありませんよ。おそらくそれは座骨神経痛か、ヘルニアから来てるんでしょう」
「どうすれば治りますか?」
「ヘルニアなら手術すれば治りますよ」
 手術、その言葉を聞いて、ぼくは医者に腰痛のことを聞かないことにした。そして、運動で治そうと心に決めたのだった。

1,思い込み
ぼくが会いたいと願っているあの人は
きっとぼくに会いたくないと願っているのだ。
だからずっと会えないままになっている。
すぐそこにいるのに声すら聞けないということは
きっとそういうことなんだろう。
だからぼくはそこに行かないでいる。
だから連絡も取らないでいる。
思い込みがまたひとつ思い出を壊していく。
思い込みがまたひとつ楽しみを奪っていく。

2,負けず嫌い
きみから女を引くと、ただの負けず嫌いになる。
それだけを見ると、男は皆引いてしまうだろう。
ところがきみはそこの所を十分に自覚している。
きみが心をくすぐるのは、その負けず嫌いが
女を演じているところにある。
だからそこの部分を所々隠しながら
そこに女をかけているから、妙に心をくすぐるんだ。

3,わがままな男
知り合いに凄くわがままな男がいて、
いつもぼくらは振り回されている。
男は言う、
「自分ほど、他人に気を遣っている人間はいない」
と。すかさずぼくらは思う。
『あんたほど、自分のことしか見えてない人間はいない』
と。勝手に人に気を遣うのはいい。だけど
『こんなこと言ったら、人はどう思うだろうか』
なんて考えてはいないのだろう。
あんたのその独りよがりな気の遣い方が、
他人に迷惑をかけているんだよ。

 昨日の写真の続きだが、ぼくは人生節目の写真を撮ってない。七五三は昨日書いたとおりだ。その後、学校の入学や卒業の写真(集合写真や卒業アルバムは除く)は撮ってないし、成人の写真もない。

 成人の日のこと、ぼくは市の成人式には向かわず、ご祝儀をもらうために親戚周りをしていた。折尾の伯母の家に行った時、伯母が「しんちゃん、写真撮ってあげるから」と言った。ぼくは断ったのだが、伯母がしつこく言うので渋々付き合った。ところが、その時伯母はフィルムを入れ忘れていたのだ。後日その旨の連絡があり、「もう一度撮ってやるから、来てくれん?」と言ってきた。しかし、スーツを着たくなかったし、写真も嫌だ。ということで、写真を撮りには行かなかった。
 もちろん、成人の日に写真屋で撮るようなこともしてないから、ぼくの成人の写真はないわけだ。

 続いて結婚写真だが、嫁さんと二人で「結婚式や披露宴でお金を出すくらいなら、マンションを買おう」と決めたので、金のかかる面倒な儀式はやめ、籍を入れるだけにして、マンションを買うことにした。もちろん、写真は撮ってない。

 今後の節目といえば・・・、何もないなあ。ということは、今後記念写真を撮ることはないはずだから、まともな写真を撮ってきてないぼくには、遺影になるような写真がないことになる。もし今必要になった場合は、何もないからと、直近で撮った免許証の写真(昨年11月撮影)を使われるかもしれない。ぼくはこの写真が生涯で一番嫌いな写真なので、何か別なヤツを用意して目立つ所に置いておかなければならない。

 昨日、嫁さんが聞いた。
「しんちゃん、七五三の写真ある?」
「ないよ」
「え、お宮参りとかしてないと?」
「いや、お参りは黒崎の岡田宮でやったんだけど、写真はない」
「どうして?」

 母親の話では、ぼくは幼い頃、写真を撮られるのが嫌いだったという。とにかくカメラを向けると泣き出したり、逃げ出したりしていたらしい。
 三歳の頃に、父親の仕事仲間と海水浴に行った時のことだが、汽車の中で父親の同僚が「ぼうや、写真を撮ってやろう」と近づいてきた。そしてカメラをぼくに向けた時だった。ぼくは大声を上げて「おまえ、帰れ!」と言ったという。その時の写真があるのだが、カメラを睨みつけている。その後はその人を避けてしまい、写真を撮らせなかったらしい。
 ぼくの七五三、当初はカメラ屋さんで記念写真を撮る予定だったらしいが、そういった前歴があるので、記念写真はやめたのだとか。

 今はそこまででもないが、やはり写真を撮られるのはあまり好きではない。特に写真を正面から撮られるのはいやだ。中学や高校の時の卒業写真を撮る時、無意識に視線をはずしていたらしく、何度も撮り直しをさせられたものだった。

 そんな写真嫌いのぼくだが、一枚だけお気に入りの写真がある。それは高校二年の夏休み,友だち数人と鹿児島に行った時に、開聞岳の山頂で撮った写真だ。それまであまり好きではなかった高校生活が、その旅行を境に俄然楽しくなるのだ。その記念碑として、五十年近く経った今でも、ぼくはその写真を大切に保管している。とはいえ、そのお気に入り写真も正面ではなく、横を向いている。


 前々から思っていたのだが、ぼくはマスクをはずす時がイヤだ。確かに呼吸はしやすくなるし、耳の痛みは気にならなくなるんだけど、はずした時の何か貧乏臭く感じるにおい、あれがたまらなくイヤなのだ。
 そのにおいのせいで、ぼくのいる場所だけでなく、世の中全体が臭く感じてくる。すれ違う人の香水のにおいも、焼肉屋のにおいも、すべて貧乏臭フィルターを通してにおってくる。嗅覚をやられると感覚もおかしくなるのか、夜の風、車の灯、街の声、みんな嘘っぽく感じるようになる。
「この世は終わった」という気持ちにもなってしまう。
 鼻の周りの肌荒れは酷くなるし、やはりマスクをしない生活がいい。

 最近寒いんですよ。まあ寒いと言っても所詮九州の寒さだから、たかが知れているのだが、ぼくにとっては寒いのです。
 三年前まで、ぼくは11月の中頃まで半袖で生活していた。暑くはなかったのだが、寒いとも思わなかったからだ。皮下脂肪のせいでもない。体重は今よりも2〜3キロ重かった程度だ。
 ところが一昨年から、11月上旬に寒さを感じるようになり、長袖を着るようになった。今年にいたっては10月下旬からだ。二年前から気象変動で、この地域だけに寒風が吹くようになったわけではない。ただぼくが寒いと感じるだけなのだ。

 嫁さんにそのことを言うと、
「それは、年取ったからよ」と言った。
「寒さに年齢とか関係あるんか?」
「あるよ」
「あんたは暑がるやん」
「私は更年期障害だから」
 実は現在、嫁さんは夏布団、ぼくは冬布団で寝ている。部屋着も嫁さんは半袖、ぼくは半纏を羽織っている。何も半纏まで羽織らなくても暖房を入れればいいわけだが、「暑い!」とおっしゃる方がいて・・・・。
 これからだんだん寒くなっていく。イヤだなあ。嫁さんはいつから暖房を入れるのだろう。

 東京に出た目的の一つが、ラジオだった。東京でAM放送を聴くのが昔からの憧れだったのだ。ラジオに専念するために、ぼくは下宿にテレビを持込まなかった。
 東京で何を聴いたのかというと、TBSラジオで当時やっていた『マカロニほうれん荘』など一連のラジオ劇画や、文化放送の『セイヤング』だ。
 特に『セイヤング』を聴くのは中学からの夢でもあった。『オールナイトニッポン』や『パックインミュージック』は福岡でも聴くことが出来たのだが、その『セイヤング』だけは、聴くことが出来なかったのだ。ということで、東京に着いた日の夜中、さっそく『セイヤング』を聴いた。運良くその日のパーソナリティは吉田拓郎さんだった。
 もちろん、『オールナイトニッポン』など、福岡時代から聴いていた番組も、そのまま継続して聴いていた。聴きたいパーソナリティが、『セイヤング』と重ならなかったために、それが可能になった。

 その翌年、ぼくは四谷でアルバイトをしていたのだが、四谷駅からバイト先に行く途中に、文化放送があった。初めてそこを通った時にすごく感動したものだった。その後も、もしかしたら吉田拓郎さんや吉田照美さんに会えるかもしれないと、いつも期待して歩いていたが、結局彼らには会えなかった。もし会えたとしても、何を喋っていいのかわからないので、会えなくて良かったとは思っている。
 憧れであった東京のラジオ生活は、そんなに長くは続かなかった。前に『南の窓』で書いたとおり、ぼくが下宿にあまり帰らなくなったためだ。

 その後ぼくは八幡に戻り、一般企業に就職した。就職した当初は飲みにばかり行き、いつも午前様だったため、深夜放送など聴く暇はなかった。
 就職してから一年経ち二年経つうちに会社はブラック企業に変ぼうしていった。今度は仕事で午前様になってしまったのだ。もちろんラジオを聴く暇などありはしない。そのうちラジオどころか、テレビも見る気が失せていった。

 十数年後に、そのブラック企業をやめ、地場の会社に再就職した。そこはブラック企業ではなかった。逆に「早く帰れ!」と言われるくらい就業規則が徹底していた。しかし、ラジオは朝晩行き帰りの車の中とプロ野球中継を聴く程度で、深夜放送まで聴くことはなくなった。相変らず『オールナイトニッポン』をやっているのは知っているが、「もういいや」という感じで、聴くことはない。

 さて、深夜放送から始まった寝不足だが、それを聴くことがなくなったので早寝するようないなったのかというと、そうではなかった。その頃からインターネットのブームが始まり、ブームに乗ってぼくはホームページを起ち上げた。物事に凝ると、時間を忘れる質なので、当然の如く夜ふかししてしまう。
 ということで、八幡に戻ったぼくは、ラジオ(深夜放送)とは縁が切れてしまったが、寝不足とは縁が切れない生活を続けることになった。
 その習慣を変えようとしているのが、まさに今なのだけど、さてどうなることやら。

1,
 ここ数日、早く寝ている。最近は夜中に見たいテレビ番組も減ってきたし、見たい番組があっても録画して後で見ればいいから、とにかく疲れを癒やそうと、早い時間に布団に潜り込んでいるわけだ。
 おかげで寝起きはいいし、体調もいいようだ。この調子でいけば、長年の寝不足疲れが取れるかもしれない。そうなると、健康診断でとやかく言われることはなくなるだろう。ぜひ早寝の癖を付けていくようにしたい。

2,
 ぼくの寝不足人生は中学時代に始まった。ラジオで『オールナイトニッポン』を聴くようになってからだ。毎日毎日2時3時に寝るのが常だった。
 日によっては朝5時まで聴いていることもあった。そんな日は、『オールナイトニッポン』が終わると、
「ケービースィー(KBC)、ケービースィー、こちらは九州朝日放送です」
 というアナウンスのあとの『朝の小鳥』という番組が始まってから、ぼくは床に就いていた。7時半に起され、学校に行く準備をし、8時半に『ピンポンパン』を見終わってから、ダッシュで学校に向かう。5時まで起きていた日は、決まって授業中に居眠りしていた。

3,
 当時はまだワイドFMなどなかったので、AMの放送局はそのままAMバンドで聴くしかなく、夜中になると海の近いわが地域は、変な放送が混じって聞こえていた。これが実に酷く、地元の放送よりも、海外の放送の音が大きかった。
 これは以前ブログに書いたものだが、

ピチッ、ガーーーーーーガーー
ガーピッ、ピッ、ビッ、ビュー
ピー、ユーー、ギュー、ガーー
・・ちら・ペッキン放送局で・
・・国の偉大な指導・・・毛沢
ツ-同志ツーツツー、ゥワーー
ガーーーー、ギーーー・・ニダ
ボ、ボ、ビー、♪~ニダー~♪
@#X+◎♭・・建省では農・
・・・ガーーー♪~サラミ~♪
ギュー、ガー、ジー、ビーーー
♪・バーヤング、パヤパヤ~♪
ピー、ユーー、ギュー、ガーー
♪・知らないま・・ァウ、ウァ
ウァウ、ウァウ、ウァー、オー
ルナイトのK・・ニダー、アー
・・ソントン・、フィガロフィ
ニダ・・ニダ・・ピュー、ガー

 毎日こんな状態で深夜放送を聴いていた。当時の洋楽の情報も、この状態から仕入れていたため、アーティスト名や曲名がよく聴き取れず、よく友だちに、「そんなアーティスト聞いたことない」とか、「そんな歌あったかなあ」とか言われていたものだった。

4,
 FM放送を聴きだしたのは高校からで、お気に入りのテレビ番組がない日は、当時FM福岡でやっていた『FMバラエティ』から『JET STREAM』まで聴いていた。とにかく音がよく、海外の放送も入らないので、中学時代のようにアティスト名や曲名を間違えることはなくなった。ぼくがボブ・ディランを知ったのもFMの番組だった。

5,
 高校時代も、AM放送の受信の悪さは相変わらずだった。そんな中でも『オールナイトニッポン』の吉田拓郎の日は聴いていた。
 憶えているのは高三の時、75年8月の吉田拓郎の日だ。その直前に拓郎が静岡のつま恋でコンサートをやったため声が出ず、泉谷しげるが出てサポートしていた。その日、ぼくは高二の時の同級生と皿倉山でキャンプに行っていた。家と比べると比較にならないくらい放送状況がよく、難なく聴くことが出来たのだ。
 この放送を聴きながら誰かが、
「Uちゃん、このコンサートのチケットを手に入れたんだけど、結局行かんかったみたい」
 と言った。実はこのコンサートは曰く付きのコンサートだった。夜通しやることになっていたので、県の教育委員会から「行ってはいけない」というお達しが出ていたのだ。その話をしながら、ぼくたちは「飲んではいけない」お酒を飲んでいた。

1,
 ぼくは、このブログで自分の住んでいる場所を『福岡県八幡』と書いている。どうして正式の名称である『北九州市八幡』と書かないのかというと、東京にいた頃、『北九州市』と言っても知らない人が多くいたからだ。
「君、いなかどこ?」
「北九州市」
「ああ大分県か」
 こんなやりとりをいつもやっていた。それでぼくは『北九州市』と言うのをやめ、『福岡県八幡』で通すようになった。義務教育を受けた人なら、『八幡製鉄所』くらいは知っていると思ったからだ。
 ではなぜ福岡県を入れるのかというと、『八幡』と言うと、京都の八幡と間違われるからだ。ちなみに読みは、福岡は『やはた』で、京都は『やわた』だ。

2,
 今はどうか知らないが、ぼくが東京にいた頃は、九州のことを知らない人が多くいた。例えば、
「福岡市の近くに博多ってところがあるだろ?」
「博多は福岡市の近くじゃなくて、福岡市の中にあります」
 とか、
「福岡県の県庁所在地は博多市だろ?」
「博多市なんてありませんよ」
 こんなやりとりが何度もあった。九州一の大都市でさえその程度の認識だったのだ。

 その頃、八幡製鉄所を見学したことがあるという人と話したことがある。ちょうどぼくが八幡から東京に戻ってきた時だった。
「いなか帰ってたんだ」
「はい」
「いなかはいいでしょう。空気がきれいで星が見えて」
 この人は八幡に行って何を見てきたんだろうと思ったものだ。当時の八幡は、街が臭く海が汚く星が見えない典型的な工業都市だったのだから。今は知らないが、ぼくが東京に住んでいた当時は、八幡よりも東京の方が、ずっと星がきれいだった。

 他には、すでに新幹線が博多まで開通していたにも関わらず、博多の手前の小倉を「こくら」と読まず、『おぐら』と読む人が多かった。ぼくはいつも、
「京都じゃないんだから」と言って読み方を正していた。
 まあ、彼らにとっては、『こくら』でも『おぐら』でも、どちらでもよかったのだろう。関東で生活していく上で何の支障もないのだから。
 でもね、大分や宮崎に行く時には困りますよ。乗り換え駅は『こくら』なので、『こくら』と憶えている人は、車内案内で「次はこくら」という放送があれば、すんなりと下車できる。しかし『おぐら』と憶えていると、いつまで経っても「次はおぐら」という案内はしないから、下手すれば乗り過ごして博多まで行ってしまう可能性がある。

3,
 義理の叔母の話だが、彼女は神奈川生まれの神奈川育ちだ。叔父と結婚するまで、一度も九州に行ったことがなかったらしい。
 その後九州に来ることになるのだが、その時の出で立ちがえらく野暮ったかった。後で話を聞いたのだが、九州に行くのだから、山道やあぜ道ばかり歩くと思い、そういう出で立ちになったらしいのだ。実際自分の住んでいる場所よりもずっと都会だったという。

 一般的に九州というと、ど田舎扱いになっているが、それは仕方のないことで、九州をど田舎にしなければならない歴史の事情がそこにあるからだ。それを明らかにすると、今の日本が成り立たなくなってしまう危険性があるわけだ。そのことは、今後徐々に明らかになってくると思います。ヒントは『白村江の戦い』にあります。

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