人生万事大丈夫!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

一ヵ月半はあっという間に過ぎていった。
結局このバイトは、以上のようなことの繰り返しで幕を閉じた。
今考えると変化のない毎日だった。
でも、前にも書いたが、ぼくはこの仕事が気に入っていた。
社会に出る感触を肌で味わっていた。
給料のありがたさを知ったのも、この時が初めてだった。

バイトが残り一週間になった頃から、「これが終わったらどうする?」とかいう話をSさんやIKなどとしていた。
Sさんは「ここが終わったら、旅に出る」と言っていた。一つのバイトが終わるといつも旅に出ているとのことだった。
IKは「すぐに就職を探す」と言っていた。
ぼくはそこからのことを考えられずにいた。
Sさんみたいに旅に出ることも、IKみたいに就職を探すことも、ぼくには考えられなかった。
何かやり残しているような気がしてならなかった。
結局は「また流れに任せて生きてみよう」というところに落ち着いた。
ラジオから、ふきのとうの「風来坊」が流れていた。


          完

さて、この駐車場で一番暇だったのは、警備員と警察官だった。
警備員はいつも駐車場の中をうろうろしていた。
よく「今日は暇だったから、この中を○周しましたよ。ははは」と言っていた。
その間、ぼくたちは客との格闘をしていたのだ。
「あの人は何の警備に来とるんやろう?」と、よく言っていた。

一方、警察官は土日祭日だけの登場だったが、仮設事務所の机の前でふんぞり返っていた。
何もせず、煙草ばかりふかしていた。
おかげでサブリーダーのシャツは焦がすし、ろくな人たちではなかった。
駐車場内で接触事故が起こった時も、「またヘタクソがぶっつけやがって―」と言いながら、事故処理をしていた。

仕事の内容は先に書いたとおりで、簡単に言えば駐車料金をもらう仕事だった。
入場口で車を止め、「駐車料金300円になっております」と言い、料金をもらうのだ。
先にクレーム処理と書いたのは、この駐車場の存在はポスター等で謳っていたが、駐車料金のことを書いていなかったために起こった。
すべて市の責任である。

入る客入る客に「ええっ!? ここは駐車料金取るんか!? そんなことどこにも書いてなかったぞ!」と言われ、いちいちそれに応対していかなければならない。
土日祭日ともなると入場者数も多くなり、すぐに駐車場付近は渋滞になった。
これもポスター等にちゃんと掲載していたら、客とこちらのやりとりの時間分の渋滞は避けられたのかもしれない。

あまりに「駐車料金がいるんか!?」といわれるので、ある日(たしか雨の日だったが)とうとうぼくは切れてしまって、「どこの世界に駐車料金を払わんで駐車できるところがあるかー!?」と大声で怒鳴ってしまった。
その客も頭にきたのか、車から降りてきてぼくに掴みかかろうとした。
たまたまそこに警備員が通りかかったため、その客は警察と勘違いしたのかすぐに車に戻り、300円を払って駐車場の中に消えていった。
おかげで大事には至らなかった。

また、こういうことがあった。
元々、その駐車場は西鉄の土地を市が借りた臨時のものだった。
ある日、大分ナンバーの高級車が入ってきた。
ぼくはいつものように「駐車料金300円いただきます」と言った。
すると、その車に乗っていた中年のおばさんが騒ぎ出した。
「まあ、ここは駐車料金取るんね。そんなこと聞いてなかった。さっそく○○(北九州市長)さんに言わないと」
「いや、この土地は西鉄の土地だから、市とは直接関係ないですよ」とぼくは答えた。
「じゃあ、××(西鉄社長)さんに言わないと。こんな所で金儲けしてるなんて」とおばさんは言った。
この時もぼくは頭に来て「市長でも社長でも言ってください! とにかく300円払って下さい!」と言った。
そのおばさんは、ブリブリ文句を言いながら300円を投げるようにしてくれた。
シャトルバスに乗ってからも文句を言っていた。
バスの運転手さんもムッとしていた。

それから何時間かして、駐車場を閉める間際にそのおばさんは戻ってきた。
笑顔でバスから降りてきたのだが、会場に忘れ物をしたらしく、また騒ぎ出した。
「会場に戻って下さい」と運転手さんに掛け合っていたが、「もうこのバスは戻りません」と言って相手にしなかった。

今度はぼくたちの所に来て騒ぎ出した。
ぼくたちも相手にせず、「もうここは閉めますよ。早く車を出して下さい」と言って、あとは知らん顔をしていた。
おばさんはしぶしぶ車に乗り込み出て行った。
ぼくたちは、「いい気味だ」と言い合った。

この駐車場のメンバーは、バイトが5名警備員が1名の計6名だった。
さらに土日祭日には警察官2名が参加した。
すべて男で、仮設の事務所はいつも狭かった。
バイトのリーダーは大手企業を定年退職した人がやっていた。
サブリーダーは塾の先生。

その下にぼくを含めた若手3人がいた。
若手の一人Sさんはぼくより一つ年上で、今で言うフリーターをやっていた。
この人もぼくと同じく中原中也のファンであった。
よく中也論を闘わした。
また、マンガがいかに人生において役に立つか、を教えてくれたのもこの人だった。
若手のもう一人IKはぼくと同い年で、家が近かったせいもあり、すぐに仲良くなった。
このバイトの間、ぼくはいつもこのIKと行動をともにした。
IKとは、その後10年近く付き合いがあったが、IKが結婚してからは会っていない。

古い話なのでよく覚えていないが、中国展のバイトは9月10日前後から始まったと思う。
本番が9月15日からだったので、その約一週間は研修期間になっていた。
この研修期間のことは何も覚えていない。
たぶん大した研修ではなかったのだろう。

そこ仕事の割り当てが行われたのだが、ぼくの仕事は駐車場の整理だった。
勤務地は、小倉駅前の会場から4km程離れた場所だった。
そこは臨時の駐車場で、来場客はそこに車を置いて、シャトルバスで移動するようになっていた。
駐車料金は300円だった。
この駐車料金をめぐってクレームが続発し、ぼくたちはその応対に明け暮れした。
結果的には、駐車整理とは名ばかりで、クレーム処理がぼくたちの仕事になった。
しかし、ぼくはこの仕事が気に入り、約1ヵ月半休まずに働いた。
いや、仕事が気に入ったというより、仕事の出来る喜びを味わっていたのだろう。

国旗掲揚台事件があってから何日か後、ぼくはバイトを辞めた。
別にクビになったわけではなく、次のバイトの採用が決まったからだった。
でも、嫌気がさしていたのは確かだ。
結局警備のバイトは8月から9月の中旬まで、競艇の開催日が1週おきにあるため実質3週間働いたことになる。
やる気のなさから抜けきれなかったために、このバイトは何も得るものはなかった。
また、浮いた存在になってしまっていたせいか、人間関係も築けなかった。

さて、このバイトを辞める前に、ぼくはあるところの面接を受けていた。
「北九州市政だより」で募集していた中国展のバイトだった。もちろん市の仕事だった。
期間限定だったため始めは躊躇したが、とりあえず受けてみようという気になったのは、先に書いた通り警備のバイトに嫌気がさしていたためだが、それと同時に警備会社の面接に受かった時の感触を忘れないうちにもう一度味わいたかったというのもあった。
つまり勝ち癖をつけたかったのだ。

面接には汚いなりをしていった。
サンダル履きで、ジーンズを捲り上げ、首にはタオルを巻いて面接に挑んだ。
面接は5人単位で行われた。
一人一人に質問をしていった。
ぼくへの質問は「体力がありそうですねえ」だけだった。
ぼくは「はい・・・」と言っただけだった。
次の人へ質問は移り、およそ10分ほどで5人の面接は終わった。
他の人への質問はぼくよりは長かった。

おそらく落ちただろうと諦めていたら、8月末に採用通知が来てしまった。
まったく、5月に受けた26回の面接はなんだったんだろう、と思わずを得ない。
ぼくはこの時から現在に至るまで、バイトを含めて二十数回の面接を受けたが、落ちたのは、失業保険を受けるためにたてまえの面接をやった2~3度ぐらいで、あとは全部受かっている。
中国展の面接に合格したことが、今でも大きな自信になっている。

自販機の仕事は本当に退屈だった。
BGMにポール・モーリアの「オリーブの首飾り」が繰り返しかかっていた。
このときから、ぼくはこの曲が嫌いになった。
この曲を聞くと、大半の人はマジックショーを思い浮かべるだろう。
でも、ぼくは夏の競艇場の自販機を思い浮かべる。

「オリーブの首飾り」を午前10時から午後3時まで聞いて、そのあと4時半に帰るまで場内の後片付けや清掃などをする。
その中に国旗を降ろすという仕事があった。
国旗掲揚台から国旗を降ろすという単純な仕事なのであるが、ここでまたぼくは問題を起こした。

ある日「国旗を降ろしてきて」と例の上司から言われ、ぼくは事務所の2階にある国旗掲揚台に行った。
降ろそうとするとハンドルが回らないので、事務所に戻り「あのー、ハンドルが回らないんですけど」とぼくは言った。
上司は「そんなことはないやろ。力を入れんと回らんよ」と言った。
「力は入れてるんですけど」
「じゃあ、力の入れ方が足りんとよ」
「そうですかねぇ」と言って、ぼくは2階に行った。
やはり回らない。
また上司の顔を見るのが嫌だったので、今度は力任せに回してみた。
すると、真鋳で出来ているハンドルが折れてしまった。
『あーあ、どうしよう』
とりあえずぼくは事務所に戻り、上司に報告した。
「えぇっ!? 折れるわけないやろ。真鋳で出来とうのに」と言いながら上司は2階に向かった。
「あ??あ・・・ 何で折れたん?」
「力を入れて回したらこうなったんです」
「力がありそうに見えんのやけど・・・ しょうがない。もういいよ」と上司は憮然とした顔で言った。
その日以来、国旗は降りなかった。
バイトをやめて1ヶ月ほど後、この競艇場の前を通ったことがある。
競艇期間ではなかったのに国旗はあがっていた。

さて、求人チェックは毎日やっていたのだが、なかなかこれはというバイトに巡り会わない。
7月末、ノイローゼ生活に飽きてきた時に一つの求人広告を見つけた。
A競艇場の警備員募集だった。
競艇の開催期間に人員整理をする仕事だった。
簡単そうな仕事だと思ったぼくは、早速その会社に連絡を取った。
そして2ヶ月ぶりに面接を受けた。
結果は採用だった。
履歴書を見るなり「来週から来て下さい」と言われた。
「何でこんなに簡単に受かるんだろうか? 前の26回はなんだったんだろう?」とぼくは思った。
とりあえずそこでバイトすることにした。

警備員といっても、周りは年寄りばかりだった。
2、3人若い奴がいたが、休憩中にいつも本を読んでいるぼくを見て「あいつ変わっとる」などと陰口をたたいていた。 そいつらとは友達にならなかった。
さて仕事のほうはと言えば、これがまた退屈な仕事で、入場券の自動販売機の前に立って見張りをするだけだった。
これを30分して15分休憩する。一日この繰り返しだった。
最初は、開場前入場ゲート前に並んでいる客の整理をやらされていた。割り込みがないか見張るのである。
「もし割り込みをする人がいたら注意するように」と言われていた。

このバイトを始めて2日目に割り込みを見つけた。
やくざ風の男だった。
『これは注意しないと』とぼくは思い、「割り込まんで下さい!後ろに行って下さい!」と大声をあげて言った。
すると、そのやくざ風は「コラ??、誰に口をききよるんか!」と声を凄んで言った。
「あんたに言いよるんですよぉ。割り込むなっち言いよるでしょうが!」とぼくは応戦した。
「おい、ここでそんなこと言いよったら、命がいくつあっても足らんぞ!」
「わかったけ、後ろに並んで下さい!」

そのやりとりを見ていた上司が血相を変えて止めに入った。
「ここはいい。事務所に戻って」と言った。
納得のいかないぼくは「あんたが注意せえと言うたんでしょうが!」と上司にも食いついた。
顔色を変えているのは、ぼくとやくざ風と上司の3人だけで、それを見ていた多数のお客は笑っていた。
ということでぼくは自動販売機の仕事に回され、客の整理は二度とさせてもらえなかった。

この2ヶ月間何もしていなかったのかといえばそうではなく、読書と求人チェックだけは欠かさずやっていた。
その頃はもう中也の詩は一段落しており、代わって中国思想シリーズへと突入していた。
「自分を鍛えなおさなければ」といった意味ではなく、なにか心の拠り所になるものを求めていたのだ。
一種ノイローゼ気味な生活の中に、どこか心を遊ばせようとしていたもう一人の自分がいたことは嬉しい。
もしこのバランス感覚がなかったとしたら、今頃こうやってHPの更新をしている自分なんかいなかったと思う。
おそらくもう死んでいるか、廃人同様に生きているかしていただろう。

その頃は格式ばった孔孟には興味はなく、自由奔放な老荘ばかり読んでいた。
漢文で習った老荘というのは何か古めかしく堅苦しい感じがしたものだが、現代語で読む老荘は新鮮で面白く且つためになる。
この老荘学習は、ぼくのその後の人生において大きな影響を与えた。
老荘の言葉を勉強したということにはさして意味はないが、自分の人生や経験に照らし合わせながらする勉強がある、ということを発見できたことは大きい。
これに比べると、受験のためにする勉強というのはなんとくだらないことなんだろう。
これからのち、ぼくはそういった意味での勉強ばかりやって、今に至っている。

バイト探しは、大学受験と同じように次から次に落とされて、数えてみたら3週間で26回落とされていた。
「照和」の翌日から、ぼくは外に出ることをやめた。
いや、外に出ることが怖くなったのだ。

こんなことは初めてだった。
電話に出るのにも、びくついている状況だった。
どんなに晴れた日でも、フィルターがかかっていて、見るもの見るものが暗く見えた。
自分の世界に閉じこもってしまい、ヘンな夢ばかり見てしまう。

昔のことを思い出してばかりいた。
高校時代の仲間達は今頃どうしているんだろう? きっと充実した青春を送っているんだろう。
彼らとぼくのどこがどう違うのだと、運命を呪ったりもした。
このままの状態で、何も出来ず一生が終わるんじゃないかと思うこともあった。
友人が遊びに来たりすることもあったが、以前のような付き合いが出来ない。
たまに行きつけの喫茶店に行ったりもしたが、「あんた暗いねぇ」などと言われ、また落ち込んでしまう。

当時の写真を見てもやはり暗い。
今でもこの時代をぼくの人生から削除したい、と思うことがある。
本当に辛い時期だった。
何もしないぼくを見て、親はいつも小言を言った。
けんかになった。
怒りは親に対してのものではなかった。
自分の運命やふがいなさに対してのものだった。
こんな状態が5月末から7月末までの2ヶ月間続いた。

さてゴールデンウィークが終わりバイト探しを再開したが、相変わらずやる気が起きない。
面接を受けるのは受けたが、こんな状態の人間を雇う企業なんかどこにもない。
職種も一貫したものがなく、手当たり次第だった。
あるオーディオメーカーの販売員派遣会社を受けたのだが、その時「君はこういう仕事には絶対に向いていない」と断定された。
でもそれから数年後ぼくはそういう職種に就いており、その時の評価は「販売の仕事をするために生まれてきた男やね」だった。
その時の状況で、評価が180度変わってしまう。おかしなものである。

最後に目先を変えて、福岡天神にある『照和』というライブハウスに挑戦してみた。あわよくばここで雇ってもらおうという考えだった。
ここはチューリップや井上陽水などを世に出した伝説のライブハウスで、アマチュアミュージシャンの聖地である。
汚い格好をして行った。
頼み込んで20分ほど歌わせてもらった。
が、気分が乗らない。反応もよくない。
結局期待していた「歌いに来て下さい」という声はかからなかった。

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