人生万事大丈夫

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

通り雨

通り雨
通り雨、犬といっしょに
夏、背中を濡らし
大きな雲が頭の上で
黒く染み込む

息を詰まらす
にわかな夜の中を
走ってきた雲が光を放ち
大地を震わす

 ついさっきまでの太陽の中
 ぼくは影を落とし
 座り込んでの手探りの中
 もう戻ってはこない

 傘をさせる人は笑いなさい
 深い水たまりの中で
 車で行く人は急ぎなさい
 あの雲を越えて

通り雨、ぼくと似た人が
黒い喪服を濡らし
降り続く雨はまた轟々と
影を滲ます

 高校を卒業した年(1976年)の夏に書いたものです。ハッキリしない部分があったため、所々書き換えています。

 ここに登場している犬は、親戚で飼っていた犬です。飼い主である伯母が、急遽入院した祖父に付き添うことになったため、うちで預かることにしたのです。
 昼間、その犬を散歩に連れて行っている時に、突如あたりが暗くなり、雷鳴とともに大雨が降り出したのです。今で言うゲリラ豪雨ですね。

図画が嫌い

 小学二年の秋だった。図工の時間に、前の日曜日に行われた運動会の画を描くことになった。
 ぼくは、数人で走っている場面を描いたのだが、出来がよかったので、一人で満足していた。

 ところがだ。先生が、わざわざぼくの画を黒板に貼り、皆に向かって、
「よく見て下さい。この画はおかしいですね。先生の目には、中に描かれた人たち全員が倒れているように見えるんですが、N君はどう思いますか?」
「全員倒れているように見えます」
「Kさんはどうですか?」
「はい、倒れているように見えます」
「そうですね。しんたくん、もう少し工夫して描いて下さいね」

 これで自信をなくしたぼくは、わりと好きだった図画が嫌いになった。
 以来、犬を描けない、猫を描けない、人物画などもってのほかだ。中学の頃、美術の作品をまともに提出したことがなかったのだが、それもこのことが根底にあったのだ。

 もちろん高校の芸術課目は美術を選択しなかった。同じく作品を提出しなければならない書道も却下。結局人前で歌うだけで点数をもらえる気楽な音楽を選んだのだった。

 その後、竹久夢二や谷内六郎の画に興味を持ったことはあるのだが、観るのがやっとで、画を描いてやろうなどとは一切思わなかった。
 ということで、今世のぼくは、画とは縁のない人生を歩んでいるのあります。

坊主は上手に

チーン、チーン、チーン

坊主は上手に屏風に
隠れてそろばんはじく
坊主は上手に屏風に
隠れて金貯める

坊主は上手に屏風に
隠れて寄付つのる
坊主は上手に屏風に
隠れて土地を買う

坊主は上手に屏風に
隠れて毒を吐く
坊主は上手に屏風に
隠れて嘘をつく

坊主は上手に屏風に
隠れて酒を飲む
坊主は上手に屏風に
隠れて女抱く

坊主は上手に屏風に
隠れて咳をする
坊主は上手に屏風に
隠れて手抜きする

チーン、チーン、チーン

墓参り

 今日から三日間仕事なので、墓参りを昨日済ませました。その中で気がついたことを歌にしてみました。

誰もいぬ横断歩道で急停車
霊でも渡っていたんだろうか?
 前の車が、横断歩道の手前で急停車したんです。焦りました。車間空けててよかった。

コロナ禍と猛暑の中の墓参り
湿ったマスクに絡む香煙
 線香のにおいを良いにおいだとは、ぼくには思えない。口元にまだ線香臭が残っている気がします。

先祖より子孫を敬う人の波
お墓少なしコストコ多し
 墓参りを終えてから、ガソリンを入れにコストコに行ったのですが、コストコ渋滞ってヤツですかね、多い多い。おそらく今日からの三日間も、墓参りよりコストコの方が多いと思います。

枯れた白

 20歳の頃だったか、Gパンセンターにシャツを買いに行った時の話である。
 店のお姉さんから、
「どういう色がよろしいですか?」と聞かれた。
 欲しい色はイメージしているのだが、その色の名前がわからない。さて、何と言ったらいいのかと考えているうちに、とっさに出た言葉が、
「枯れた白」だった。
「えっ、枯れた白?」
「はい」
 それ以上考えつかなかったのだ。
「枯れた白ねえ・・。ちょっとお待ちください」

 しばらくして、お姉さんが戻ってきて、
「枯れた白、これでよろしいですか?」と言った。
 お姉さんが手に持ったシャツは、ぼくがイメージした色そのものだった。
「これ、何という色なんですか?」
「薄いベージュですね」
 この時、ぼくは初めてベージュという色を知ったのだった。
 
 図画が嫌いだったぼくは、色にも疎く、例えばカーキ色やコバルト色などと言われても、頭に浮かぶのは、カーキ色は『柿色でなかったな』で、コバルトは鉄腕アトムの兄さんの名前だ。その色がどんな色なのかが出てこない。

 しかし「枯れた白」はよかったな。そのことを知らなくても、国語力さえあればなんとかなる、ということに気づかされた言葉だ。

痩せぎすのバッタ

濃い緑色の作業着を着込んだ
痩せぎすのバッタは
滑り止めの付いた
ギザギザの地下足袋を履き
股の膨れたニッカーボッカーに
力を込めて、工事現場を
飛ぶように歩いている

スマホはつらい

 相変わらずパソコンは壊れたままです。ここ数日、わりと長い記事を書いていますが、それらの記事はすべてスマホで書いたものです。
 本当にスマホは書きづらい。目は疲れるし、首は凝るし。このまま続けたら猫背になってしまう。

 猫背で思い出したが、今年1月に遭った事故によるむち打ち症がその後どうなったのかというと、まだ完全には治っておりません。が、病院にはもう通っておらず、自宅で運動やマッサージなどやって気を紛らわせております。

 最近は運動に加えて、プチ断食をやっています。毎日一食抜くだけのお手軽な断食なのですが、それだけで内蔵が良くなり、癌や糖尿病の予防になるそうなのです。まだ始めて1週間なのですが、何となく肌つやが良くなっているような気がします。

 二年前に脳梗塞になってから、それまでまったく興味がなかった健康に関心を抱くようになり、ネットなどでその手の記事を見つけると、とりあえずやってみることにしています。
 上記のプチ断食や以前から取り組んでいるスワイショウや湯シャンもその一貫で、その根底には、二度と入院したくないというのがあるのです。退院した時、嫁さんに、
「死ぬまで医者いらずの体を作る」と誓いましたからね。

仕組まれた時間

 もう三十年ほど前になるかな、その年の一月末に三連休を取ったことがある。別に用はなかったのだが、せっかくだからブラッと旅行にでも行こうと思っていた。

 ところがその三連休の前の週に、伯父の容態が悪くなったという連絡が入った。伯父は正月明けから病院に入院していたのだが、そこまで症状は酷くないと聞いていたので、ショックが大きかった。
「この分だと、連休が潰れるかもしれん」と思ったぼくは、旅行に行くのをやめることにした。

 そして三連休の前日、母から「伯父さんが亡くなった」という連絡が入った。
 仕事が終わってから斎場に行くと、翌日が通夜、その翌日が葬儀と初七日、またその翌日が香典返し、とスケジュールが決められていた。唯一車を持っていたぼくは、その三日間、親戚や知人の送迎や、香典返しの運搬をすることになった。

 今思えば、ぼくの三連休は、伯父のために用意されていた時間だったことになる。もしかしたら時間というのは、いつもこういうふうに仕組まれているのかもしれない。

運命の分かれ道(後編)

──続きです

 担任は続けた。
「その推薦なんですが、実は締め切りが明日の午前中なんですよ。今日願書を持って帰り、必要事項を書き込み、明日それをX大学に直接持って行ってもらわなければなりません」
「えっ!?」

 X大は福岡市にある大学だ。今でこそ野球の観戦やコンサートを見に行ったり、仕事で訪れることが多くなったが、当時のぼくはあまり福岡市に行ったことがなく、博多駅近辺以外の地理がまったくわからなかった。そこでぼくは、
「大学は福岡市のどこにあるんですか?」と聞いてみた。すると担任は、
「博多駅からバスが出ているから、それに乗って行けばいい」と言う。
「駅のどこからバスに乗ったらいいんですか?」と聞くと、担任は、
「そこまではわからんが、その辺の人に聞けばわかるだろう」と言った。

 つまり、翌日の午前中までに願書を出すためには、持って帰った願書に必要事項を焦って書き込み、翌朝早く家を出て、一時間近くかけて博多に行き、駅のどこにあるかわからないバス停をその辺の人に聞きまくって探し、そこからどのくらい時間がかかるかわからない大学までバスで行き、大学内で事務所を探し、そこで願書を提出しなければならないわけだ。どう考えても面倒だ。

 ということでぼくは、
「推薦はいいです。一般で受けます」と言って、担任の提案を断った。担任は
「そうか、一般で受けるか。お母さん、それでよろしいですか?」
「はい、本人が決めることですから」
「じゃあしんた、一般で頑張れ」

 これがぼくの運命の分かれ道になった。もし、あの日担任が風呂から上がった後に電話をくれていたら、ぼくはとりあえず推薦入試を受けていたと思う。そして余裕を持って丁寧に書いた願書を、郵送で提出していたはずだ。その後X大に入り、今とは違った人生を辿っていたに違いない。

 つまり、一般で頑張れなかったということになるのだが、もしその大学に入っていたとしたら、高校を卒業してからの波瀾万丈を体験できなかっただろうし、そのことを書き綴るブログもやらなかったはずだ。そう考えると、面白くない人生になっていたのかもしれない。


 卒業してから数年後、担任からハガキが届いた。そこには、
「その後どうされていますか。気になっています」と書かれていた。その時は返事を出さなかったが、ちょうどいい機会だ。今ここで返事を書くことにしよう。
「あなたが風呂に入ったおかげで、面白い人生を歩ませてもらっています。感謝していますよ、先生」
 先生、まだ生きてるのかなあ?

運命の分かれ道(前編)

 高校三年(1975年)の12月のある金曜日のこと。その日、家にいるのはぼく一人だった。夜8時頃だったか、二階の部屋でギターを弾いていると、一階から電話の鳴る音がした。慌てて階段を駆け下り、電話に出た。

「もしもし」
「お母さんいますか?」
「母は今出かけていますが」
「そうですか。じゃあ後でかけ直します」
 聴いたことのある声なのだが、相手が名前を言わないから、誰かわからない。しかし、かけ直すということだったので、気にしないでおいた。

 母が帰ってきたのは9時を過ぎていた。
「電話かかっとったよ」
「誰から?」
「さあ?聴いたことある声やったけど、名前は言わんかった。かけ直すとは言ってたけど」
 しかし、その夜電話はかからなかった。いや、その夜だけではなく、その翌日も、そのまた翌日も、ずっとかからなかった。

 その翌週の金曜日、三者面談があり、担任と母とぼくの三人で進路の話し合いを行った。開口一番担任は、
「これは提案なんですが、X大学の推薦を受けてみませんか?」と言った。「実は先週、その件でお母さんに電話をしたんですが、いなかったんですよ。風呂に入った後にかけ直そうと思っていたんですが、忘れてしまって。ハハハ」

 聴いたことのある声だと思っていたが、あの電話は担任からだったのか。電話越しで、しかも他人行儀に話すのでよくわからなかった。
『何が「ハハハ」だ。電話をかけ直さなかったのを覚えているのなら、それに気づいた時に電話すればいいじゃないか』と、ぼくはその時思っていた。

 この担任の風呂の一件が、ぼくの運命を大きく左右することになる。

続きます──

遅刻の思い出

 高校三年の頃、バスが故障して動かなくなったことがある。学校間近の路上でのことだ。もし故障してなかったら間に合っていたと思うが、その時そのバスのせいで遅刻してしまった。

 いつも遅刻していたぼくは、いつものように担任から職員室に呼ばれ、いつもと同じお小言をいただく。
「おまえはどうして遅刻したんか?」
 いつもは言い訳はしなかったが、さすがにその時ばかりは言い訳をした。
「バスが故障しました」
「何バレるような嘘を言っとるんか」
「本当です」
「バスが故障するわけないやろうが」

 バスは遅延証明が出なかったので、それを証明するものがない。頑固一徹な先生だったから、そのことで言い争いなんかすると、かなり時間がかかってしまう。そこで、もう何も言うまいと思った。

 するとその時だった。そのバスに乗っていた下級生が、同じく職員室でそのことを言っていたのだ。下級生の担任は物わかりよく、
「そうか、バスが故障したんか。それならしかたないなあ。はい、わかりました」と言っていた。えらい違いである。

 その先生がぼくの担任に向かって、
「先生、バスの故障は本当らしいですよ」と言ってくれた。
 これで言い訳が通った、と思っていたら甘かった。
「故障するバスに乗った、おまえが悪い」、である。
 結局バスの故障は認められず、ぼくは遅刻扱いになってしまったのだった。さすがに、この時は悔しかった。
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